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2018年5月24日木曜日

(少女前線/Girl's frontline)世界観解説: 「遺構技術研究のその後とGAVIRUL再現プログラム・第1次ベイラン島事件」

注釈は面倒なので省略。
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遺構技術研究のその後とGAVIRUL再現プログラム

ソ連とアメリカによる急ぎ足での研究と実験によって起きた一連の事件の後、世界は現時点の技術力では遺跡の技術全体の解析とその仕組の解明は極めて困難であるという結論に至った。
 1960年代、中国の上海沖にあるベイラン島の遺跡で未知の生物の遺体が発掘された。この遺体は未知の文明を創造した知的生命体の1体とみなされ、"GAVIRUL"あるいは中国語でˆÑwei"と名付けられた。この個体は未知の文明の守護者と推定された。

 GAVIRULが回収された後のベイラン島遺跡では有益な成果物がなく、また遺跡が地下67mという場所にあったこともあり埋め戻されてしまい、12年後の都市開発まで忘れられることになる。GAVIRULはUNBASの設置とそれに続くGAVIRULの研究開始まで30年間忘れ去られていた。長い論争と政治的協議の末、GAVIRUL再現プログラムが浮上した。
 この計画は混沌としたもので、当初から指針が定まっていなかった。政治的な狙いを除けば、局内の生物学者たちは2つの派閥に別れていた。まずGAVIRULの計画は遺跡を有効化する鍵であり、遺跡の機能を有効化した後で徹底的に解析し、複製する事を目論む勢力と、遺跡の発掘を一時中断し、GAVIRULをヒト化させることで遺跡の危険性を理解する事につなげようとする勢力の2つである。後者は次第に幅広い支持を得た。そして GAVIRULの遺伝子情報を元にGAVIRULヒト化計画は実行されることになった。 遺伝子の不安定性によって実験体の死亡率は極めて高いものとなり(98.9%)、生存した個体は2体のみだった。染色体の完全性を確保するため、全ての実験体は女性であり、使用した卵子の違いから生き残った2体はそれぞれ白人とモンゴル系の特徴を有した。観察計画の時点でつけられた番号に従い、白人女性の個体はG-37、モンゴル系女性の個体はG-114と番号がつけられた。 遺伝的欠陥によって、G-37は白髪であり、G-114は黒髪だった。両方とも胎児の段階では普通の人間と区別がつかなかった。外見的特徴から、G-37とG-114の観察計画は「ブラックリリー&ホワイトローズ」と名付けられ、2体は「リリー」と「ローズ」と命名された。彼女たちの遺伝子のバックアップである「ラケシス」と「アントロポス」は-80度の冷凍設備に保管された。

 実験体の成長速度は異常なほど早かった。彼女たちは7歳の時点で14歳の人間の特徴を持っていた。様々なテストの結果によれば、 筋付着強度および前頭葉の活動強度についてはこれといって特別な傾向は示されなかった。リリーとローズが遺跡に影響を与えるか試しても反応は無く、20年の観察はGAVIRUL再現プログラムが根本的に失敗に終わったと結論づけさせ、遺跡の直接分析を続けるべきという意見を増加させることになった。 実験体のサンプルバックアップを作成しアーカイブを保管した後、「ブラック・リリー&ホワイト・ローズ」計画の為に用意されていた資金は、遺構技術に関連した技術である「ウェイト・ベアリング」小型筋力補助装置[8]の開発に転用された。このシステムは後にアサルト・アーティラリーシステムの構造的基礎として役立った[9]。 戦争後の混乱によって、2体の実験体がその後どうなったかを完全に知ることはできない。しかし報告書の断片は第1次ベイラン島事件の前夜、ELIDに対する秘密作戦に関与している可能性があることを示している。ベイラン島事件に直接、或いは間接的に貢献したかどうかはわからない。

第1次ベイラン島事件

第1次ベイラン島事件は、遺構技術による事故への対処の失敗としては最初のものではなかったが、世界を完全に変えたこの出来事である。破壊的な開発工事によって遺跡内にあった少量の崩壊液が結晶化カプセルから漏れ出し、更に都市建設のための過剰な掘削は遺跡の外殻断熱層に深刻な損傷を与えていた。崩壊液の放つ放射線は地上の人間に"広域性低放射症候群(ELID)の症状を提示させた。  ELID事案についての経験不足から、現地の自治体は注意を払わず上位の政府機関に報告を行わなかった。代わりに実施されたのは汚染地域の単純な隔離と避難だけだ。 ELIDに関連した重大犯罪の急増から、特別治安警察は一連の犯罪に目を向け始めた。[10] この事件の後、ベイラン島は完全に封鎖され、自治体からも隔離された。
 しかし次第にこの事件が忘れられていくに連れて封鎖のレベルも緩和していき、 たった15ヶ月後にはレベルIVまで引き下げられた。
 この封鎖と監視の不徹底は、後に起こるベイラン島事件を引き起こした要因の一つになった。

 ベイラン島事件の発端は7人の中学生が封鎖地区に忍び込み、ELIDの感染者に襲われたことだった。特別治安警察は彼らを救出するため、AA-03D(AA型は「ウェイト・ベアリング」システムに改良を加えたもの。)の警察仕様を装備した人員4名を派遣した。しかし救出作戦は失敗し、11名全員が死亡した。AA-03Dに搭載されていたカメラから送信された映像の最後の数秒間には、遺跡内の混沌とした状況と、救出部隊が爆薬を使用して入り口を強制的に塞ごうとしている様子が映されていた。しかしこれは失敗だった。爆発によって遺跡の外壁が破壊され、そのまま崩壊液の制御不能な漏出が始まった。崩壊液の密集は、高密度粒子融合によって瞬間的な高温を引き起こした。崩壊粒子の雲はその後の爆発とジェット気流に流され、街一つを簡単に破壊した。崩壊粒子の雲は爆風によって広がり始めた。汚染された地域は荒廃し、ELIDの大量感染によって人口は急減、人類の居住可能な地域は大幅に減少した。各国はその後15年にわたって崩壊粒子雲への対応に追われた。崩壊粒子雲が、人類が接触可能になる水準までかかる年月はおよそ100万年と結論付けられた。国家間の紛糾と論争は激化し、回復不能な水準に達した。そして残された居住可能地域を維持するために第3次世界大戦が勃発する事になる。

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