2017年4月25日火曜日

(Steel Division適当翻訳)第101空挺師団


例によって適当翻訳。わからないところはそれっぽくやる。
公式ブログの原文はこちら。英語が分かる人は原文を読んだりこの記事の間違いをコメント欄に書き込んでほしい。
以下本文

 Steel Divisionでは、ノルマンディーの戦いに参加した18個の師団の中から一つを選び、戦闘団を編成しなければならない。これらの師団は種別(装甲、歩兵、機械化、空挺)と歴史的な経緯、実際の部隊編成に基いて構成されており、部隊、装備、練度の多様さは・・・非常に幅広い。

 毎週我々は各々の師団を一つずつ紹介していく。今日最初に紹介するのは、ノルマンディーにおける一連の作戦の中で最も有名な師団の一つである、通称「Screaming Eagles」ことアメリカ軍第101空挺師団の空挺兵たちを紹介しよう。


SCREAMING EAGLES
 アメリカが第2次世界大戦に参戦した1941年末、彼らは1ダースにも満たない歩兵師団と郷土防衛部隊しか保有していなかった。最初の機甲師団は依然として歩兵の中にあり、同じ歩兵でも空挺部隊は数個の大隊があるのみだった。最初の空挺戦に関する研究は1940年に始まり、ドイツ軍のベルギー及びオランダでの作戦の成功に影響を受けたものだった。


 第101空挺師団は1942年8月19日、ルイジアナで編成された。「米軍空挺部隊の父」と呼ばれたウィリアム・C・リー准将を指揮官として第502落下傘連隊と第327、第401グライダー歩兵連隊によって構成されていた。リーは1940年に創設された米軍初の空挺部隊の主導者だった。編成から1年後、新たに第501、第506落下傘連隊(後者はバンド・オブ・ブラザースの名声を得ることになる。)を加えた彼の空挺師団は英国に送られ、来るべき大陸侵攻作戦に向けた訓練を開始した。

 姉妹師団とも言える第82空挺師団がアルジェリア、イタリア、シチリア島において空挺作戦やグライダーによる強襲を実施したのに対して、第101空挺師団はノルマンディー上陸作戦まで実戦経験を持たなかった。しかし師団の幹部には他の部隊で実戦参加しており、リーの後任として指揮官となったマクスウェル・D・テイラー准将はその一人だ。(リー准将は1944年に心臓発作を起こして指揮官を退いた。)


 テイラー准将は第82空挺師団出身のベテランで、幅広い技能を持った優秀な軍人だった。工兵士官として任官した後に砲兵部隊でも勤務し、戦前は駐在武官としてアジアに赴任した経験もある。イタリア語とスペイン語など外国語にも堪能だった。空挺部隊での戦歴は、イタリア戦線におけるアイゼンハワー主導の極秘作戦が挙げられる。
 テイラーはDデイ前の最後の訓練でも、ノルマンディーで彼の部隊が最初に放火の洗礼を受けた際にも部隊の指揮官だったので、彼はフランス領に触れた最初に将軍となった。


HEDGEROW HELL
 第101空挺師団のノルマンディーにおける最優先目標は、ユタ・ビーチ南方から延びる土手道を占領で、同時にユタ・ビーチとドゥーブ川に挟まれた地域の掃討と占領も目指スことになった。また作戦全体から見た第101空挺師団の役割は、コタンタン半島(ノルマンディー)侵攻中の味方部隊の左翼を防御する事だった。


 先遣隊が本隊に先立って降下地点指示のために展開したにも関わらず、夜間の視界不良と風、そしてドイツ軍の高射砲によって輸送機の隊形は崩壊し、第82、第101空挺師団兵士の75%は予定の地点に降下出来なかった。指揮系統の崩壊と暗闇、混乱の中で彼らは即席で集団(2つの師団の兵士が混ざることもあった。)を作り、任務達成のために、あるいは自己判断のもとに行動した。

 空挺部隊の分散は、結果として良い方向に働いた。ドイツ軍は空挺部隊の脅威度を正確に把握できなかったのである。ドイツ軍は空挺部隊が大部隊で広範囲に数時間で展開し、数日で再集結した後にドゥーブ川方面へ向かうと想定しており、この地域を掃討するべく再編成と増援の派遣を行った。同じ空挺部隊の第6降下猟兵連隊も増援に派遣されている。


LIONS & EAGLES OF CARENTAN
 米独の空挺部隊が接敵してから数日に渡り、カランタンで激しい戦闘が繰り広げられた。カランタンを占領すれば、目と鼻の先にあるドゥーブ川に掛かる橋も掌握できるからである。米軍は陸揚げ中の機械化部隊を迅速に進撃させるべくカランタンの占領を目指した。一方のドイツ軍も増援の到着まで持ちこたえる必要があり、双方にとって時間が重要だった。

 6月10日、Screaming Eaglesは全力を持って攻撃を開始した。ドイツ軍は2日間に渡ってこの攻撃に耐え、ドイツ軍兵士は「カレンタンのライオン」の異名を得た。6月12日、ドイツ軍は物資を置いたまま撤退した。・・・しかし翌日には第17SS装甲擲弾兵師団が反撃を開始。カレンタンの南西に展開していた第501落下傘歩兵連隊が第1撃を受けた。この場所は後に「Bloody Gulch(血塗られた峡谷)」と呼ばれるようになる。第501連隊に続いて第506連隊も側面攻撃の危険から後退を余儀なくされたものの、有名なE中隊が矢面に立ち、彼らはカレンタンを第2機甲師団の到着まで守りきった。


 この戦いの後、第101空挺師団は上陸した他の部隊とカレンタンの防御任務を交代して任務を完了した。その後英国へ一旦戻り、次の空挺作戦へ向けた準備を進めることになる。


AFTER NORMANDY
 第101空挺師団は再編成と補充、訓練を行った後、時間を置かずに前線に戻った。1944年9月17日、彼らはオランダで実施されたマーケット・ガーデン作戦に参加し、その任務はアイントホーフェンを含む5つの橋の占領だった。抵抗は少なく、初日で4つの橋を占領したが、ゾン鉄橋の破壊には失敗し、元々余裕のない作戦計画の進行に大きな影響を与えた。

 マーケット・ガーデン作戦後、第101空挺師団は予備部隊となった後に一般の歩兵部隊として再び前線に送られ、アルデンヌでのドイツ軍の反攻作戦を経験することになる。彼らは交通の要衝バストーニュの防衛についており、12月21日にはバストーニュはドイツ軍によって包囲された。テイラー准将不在の中、第101師団は次席指揮官兼砲兵指揮官だったアンソニー・マコーリフ将軍の指揮によってバストーニュ防衛戦を戦った。


 孤立しながらもバストーニュは航空輸送による断続的な補給を受けていた。「Battered Bastards of Bastogne(バストーニュの野郎ども的な意味?)」はドイツ軍を撃退し、ドイツ軍側が使者を派遣して降伏を求めた際、マコーリフ将軍は明快に「Nuts!」と答えたという。結局バストーニュは守られ、26日にパットンの機甲部隊が到着して状況は改善した。

 しかし彼らに休息は許されない。第101師団はこの戦闘の後も歩兵部隊としてジークフリート線へ撤退するドイツ軍の追撃を行い、翌年1月18日に休養をとったのみだ。戦争終結の月には、第101空挺師団はドイツ南部のバイエリッシェ・アルペンへ移動し、11月30日に復員となった。


THE 101ST AIRBORNE DIVISION INGAME
 他の空挺師団と同じく第101空挺師団はフェーズAで最も強力で、とても攻勢的だ。主力は多彩で汎用的な歩兵部隊で、彼らは一般歩兵よりも強力な火力と対戦車能力を持っている。ドイツの装甲擲弾兵がMG42のお陰で射程に優る一方で、接近戦ではトンプソンSMGとガーランドのような歩兵携行火器によって米軍が有利になる。


 Dデイ前に英国で訓練を受けていたため、ゲーム中のScreaming EaglesはM22空挺戦車を使用できる。装甲は薄く武装も37mm機関砲だけだが、機動力を師団に提供し、歩兵部隊の前進を支援して迅速な戦線突破を可能にするだろう。


 対戦車火力は限られており序盤は厳しい状況になるかも知れないが、フェーズBになればM5A1スチュアート軽戦車米陸軍航空隊による航空支援が使用可能になる!だがこの段階では、砲兵(対戦車砲?)で敵の攻勢を阻止するまでは防御的に戦うのが最善だろう。


 最後のフェーズCではより強力で増強された対戦車攻撃機と対戦車兵器を使用できる。特に機動力と凶悪な火力を併せ持ったM10A1戦車駆逐車は重要な存在だ。

追記
 英独の空挺部隊と同じように、第101空挺部隊も(ユニットのカードに翼のマークがついているユニットは全て)前線による影響を受けない。

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